花火が繋いでしまう
はなびがつないでしまう
利賀村の演劇は、日本で断絶したものを毎年やり続けているという意味で 「取っつきにくさの最高峰」なのに、花火があることでお祭りとして機能している。
花火は、やっていれば人は絶対に見る。 しかもそこには空襲のモチーフや日本の記憶の問題が実はリンクしている—— 『8番出口』のゲームとキューブリック『シャイニング』が繋がるのと同じで、 無理やり繋げるのではなく「実はこれ繋がるじゃん」というかたち。 もともと意味としては繋がっていなかったはずのものが、 形としては同じものだったりする。「そういうのを見つけたいな」と荘子itは言う。 これは、飯を食う・何かを見て感想を抱くといった 「生きていれば必ずやること」を接点にするという話でもある。
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関連項目
- 批評にもっと期待していい黒嵜想と話して出てきたこと。
- 状況へのリアクションを求められる新しいアイデアについて喋っている、という状況そのものを受け取ってもらえる場所が どんどん少なくなっている。
- ブドウが実は最強だったフルーツとしてのブドウは甘さという土俵では他に負けるし、ブドウジュースも リンゴやオレンジに比べて大したものではない。
- 反戦だがそればかりの世の中とも距離があるこうの史代の変わったバランス。
- 理論を作って渡す人文的なものを「僕らがやっていることを皆さんもできるようになります」 という能力の形でプレゼンすることも必要だとは思うが、 福尾はそっちにはあまり興味がない、と言う。
- 人間の本当の仕事は感動することトラックメーカー講座をやろうという話が出たときに荘子itが思ったこと。
- こうの史代展示を荘子itが観に行った。
- 高畑勲『火垂るの墓』を反戦映画ではないと死ぬまで言い続けた。