批評は人間関係の話しかしていない
ひひょうはにんげんかんけいのはなししかしていない
考察より思想のほうが面白い・偉いと、批評をやっている自分もやはり思う。
番組より
でもやっぱり現実問題、批評ってもうなんか人間関係の話しかしなくなってるからさ。そうなったら考察やってる人の方が、ちゃんとコンテンツの話をコンテンツの話としてしてるわけで、偉いじゃんっていう風にも思う。
この項目について
だが現実問題として、いまの批評はもう人間関係の話しかしなくなっている。 そうなったら、考察をやっている人のほうがちゃんとコンテンツの話を コンテンツの話としてしているわけで、偉いじゃないか。 だから批評というものが見限られる理由も、それはそうだよなという感じがする—— と福尾は言う。 荘子itはこれを受けて、福尾自身がやっているのは 「批評に対する考察」なのではないか、と言う。 蓮實重彦も画面そのものを論じるが、最終的には「ジョン・フォードだから素晴らしい」 と映画作家の擁護に着地する。福尾は作家に権威づけを一切せず、 文字通り読むことによって映画そのものと関係なくなっていく。 それは考察が作者を殺していくことにかなり近い。 「本当の令和人文主義者は俺だ、みたいな」。
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関連項目
- 他人の日記福尾が構想している日記本のタイトル。
- 置き配写真館の構造的な問題自分の家に届く置き配写真は、毎日歩いている玄関先を無造作にピンボケで撮った 写真が急に送りつけられてくるという、めちゃくちゃ不気味で変な体験だ。
- 真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、 かえって著者の意図を裏切っている——そこが面白い、と福尾は言う。
- 序文というパレルゴン序文は順番としては一番最初に来るのに、たいていは本文を書き終わったあとに書く。
- 令和人文主義は誰も自称しない令和人文主義という言葉は不思議なことに誰も自称せず、 「自分以外みんなそう」という形でしか使われない。
- 感想ツイートに懸賞金公式のトークイベントや帯コメントの推薦よりも、ポッと出たかのような感想ツイートが みんなの問題意識に接続して一気に跳ねる。
- 福尾匠『置き配的』発売から1週間、ずっとエゴサをしていた。
- 置き配的2025年11月刊。