2025年12月1日
『置き配的』宣伝会議
『置き配的』発売から1週間、福尾はずっとエゴサをしていた。 Uber Eatsのバッグに本を挿している人の目撃報告が一番嬉しかった、という話から、 本のプロモーションはなぜこんなに動きが重いのか、 感想ツイートに懸賞金を出したらどうか、置き配写真館がいまひとつ盛り上がらない理由へ。 そして次の企画、日記本『他人の日記』の相談。
話の流れ
- 0:441週間エゴサをし続けた完全に脳の報酬系が中毒になっている。アテンションもポジションも欲しい、と書いた本人がまさにそのシステムに絡めとられている。
- 3:40発売1週間で重版「楽になった」という感想が多い。分かりやすい癒し系の本ではないのに、生き苦しさをちゃんと言うだけでいいのだと書いてみて思った。
- 5:00Uber Eatsのバッグに置き配的読者が路上で目撃して報告してくれた。現実に浸透していくのが見えると本当に嬉しい。
- 6:40スマホのための日傘自転車の配達員がハンドルにスマホ用の小さい日傘をつけている。夏は一瞬で熱暴走するから。福尾はそういう細かいものを見つける。
- 10:00読んで書き始めた人がいる福尾の日記を読んで日記を書き始めた人は観測できるだけで数十人いる。批評文を読んで同じ用語で分析したくなるのとはまた違う触発のされ方。
- 12:10感想ツイートに懸賞金バズった感想ツイートに10万円出す。実際には不正が起きるから無理だが、それくらいのことをやってもいいのでは。ステマは事実上それをやっている。
- 14:20本のプロモーションは動きが重い書店→出版社の営業→担当編集→著者と3つ跨いでやっと話が来る。オンラインで30分打ち合わせすれば解決する問題なのに。
- 20:00プラットフォーマーに読ませたいUber Eatsや大和運輸の偉い人にこそ読んでほしい。配達員は特権的な職能ではなくほぼ市民であって、消費者と従事者の境がなくなっている。
- 23:20置き配写真館の構造的な問題自分の家の置き配写真は不気味だが、他人の家のそれはインパクトが目減りする。夢の話が自分にしか面白くないのと同じ構造。
- 26:00他人の日記3年分の日記を一冊にまとめる企画。序文もコラムも書きたくない。1ページ目からいきなり日付と日記が始まるのが一番かっこいい。
- 29:45ゲラチェックをしたくない誤字脱字があったとして、なんで僕が直さなきゃいけないのか。その時の僕なんだから。校閲には「間違っている」とだけ書いてもらう。死んだ人の日記は誰も直さない。
- 33:26序文というパレルゴン序文は順番として最初に来るのに本文を書き終わってから書く。始まりと終わりのあいだに人工的な円環構造を作るためにある。デリダのいうパレルゴン。
- 36:36真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、かえって著者の意図を裏切っている。バルトの「作者の死」とは正反対の方向から作者を殺している。
- 40:40批評は人間関係の話しかしていない考察より思想のほうが偉いと批評をやっている自分も思うが、現実問題いまの批評は人間関係の話しかしていない。それなら考察の人のほうがコンテンツの話をしていて偉い。
- 41:35批評に対する考察蓮實重彦は画面そのものを論じても最終的に作家を擁護する。福尾は作家に権威づけをせず、文字通り読むことで映画そのものと関係なくなっていく。それは考察が作者を殺すことに近い。
- 43:00令和人文主義は誰も自称しない自分以外みんなそう、という形でしか使われない。三宅香帆一強という現実から目をそらしたい欲求の現れではないか。
- 47:10読み上げないコメントコメントは全部読んでいるが読み上げない。言ってこいのコミュニケーションでなくても、いろんな言葉が生まれている状態が一番気持ちいい。
この回で出てきた言葉
- 置き配写真館の構造的な問題自分の家に届く置き配写真は、毎日歩いている玄関先を無造作にピンボケで撮った 写真が急に送りつけられてくるという、めちゃくちゃ不気味で変な体験だ。
- 感想ツイートに懸賞金公式のトークイベントや帯コメントの推薦よりも、ポッと出たかのような感想ツイートが みんなの問題意識に接続して一気に跳ねる。
- ゲラチェックをしたくない日記本にゲラチェックを入れたくない、と福尾は言う。
- 序文というパレルゴン序文は順番としては一番最初に来るのに、たいていは本文を書き終わったあとに書く。
- スマホのための日傘自転車のUber Eats配達員が、ハンドルのところにスマホ用の小さい日傘を つけている。
- 他人の日記福尾が構想している日記本のタイトル。
- ドアを開けっぱなしにする車上荒らしが多すぎる街で、逆に車のドアを開けっぱなしにしておくのが 流行っているという話。
- 批評は人間関係の話しかしていない考察より思想のほうが面白い・偉いと、批評をやっている自分もやはり思う。
- 福尾匠『置き配的』発売から1週間、ずっとエゴサをしていた。
- 真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、 かえって著者の意図を裏切っている——そこが面白い、と福尾は言う。
- 読み上げないコメントコメントは全部読んでいるが、番組では読み上げない。
- 令和人文主義は誰も自称しない令和人文主義という言葉は不思議なことに誰も自称せず、 「自分以外みんなそう」という形でしか使われない。
この回で触れられた項目
この回からの引用
あくまでこれって別に僕にとっては僕の日記だけど、僕以外の人にとっては単なる他人の日記ですよねっていう、切り離し方をした本にしたいなと思ってて。
→ 他人の日記
いわゆる作者の死とかロラン・バルトは言ったわけだけど、それとは真逆の方向性から作者を殺してるっていう。持ち上げてるようでいて、本当に人間として見てないっていう。
でもやっぱり現実問題、批評ってもうなんか人間関係の話しかしなくなってるからさ。そうなったら考察やってる人の方が、ちゃんとコンテンツの話をコンテンツの話としてしてるわけで、偉いじゃんっていう風にも思う。