序文というパレルゴン
じょぶんというぱれるごん
序文は順番としては一番最初に来るのに、たいていは本文を書き終わったあとに書く。
「私はこういうことを言うことになるだろう」という予言をしているわけで、 そこにタイムパラドックスがある。それは本文をきわめて人工的な仕方で閉じ、 始まりと終わりのあいだに綺麗な円環構造を無理やり作るためにある。 デリダはこれをパレルゴン——絵にとっての額縁のように、 作品そのものではないが、それがないと作品が作品にならないもの——と呼んだ。 福尾はその作為性が気になる。「それ、なくていいんじゃない」。 ただし本という一つの物体にすること自体もある種のパレルゴンではある。 『非美学』や『置き配的』は一つの全体性を意識して作っているので序文も自然に 受け取れるが、日記は全然違う。
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関連項目
- 他人の日記福尾が構想している日記本のタイトル。
- 置き配写真館の構造的な問題自分の家に届く置き配写真は、毎日歩いている玄関先を無造作にピンボケで撮った 写真が急に送りつけられてくるという、めちゃくちゃ不気味で変な体験だ。
- 真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、 かえって著者の意図を裏切っている——そこが面白い、と福尾は言う。
- 批評は人間関係の話しかしていない考察より思想のほうが面白い・偉いと、批評をやっている自分もやはり思う。
- 令和人文主義は誰も自称しない令和人文主義という言葉は不思議なことに誰も自称せず、 「自分以外みんなそう」という形でしか使われない。
- 感想ツイートに懸賞金公式のトークイベントや帯コメントの推薦よりも、ポッと出たかのような感想ツイートが みんなの問題意識に接続して一気に跳ねる。
- 福尾匠『置き配的』発売から1週間、ずっとエゴサをしていた。
- 置き配的2025年11月刊。