2025年10月20日
「男性どうしでお茶いけない問題」について考える
福尾が髭を伸ばしはじめた話から、Dos Monosがタイアップした「男磨き」番組、 そして「標準語のタメ口で疑問文が言えない」という福尾の長年の引っかかりへ。 男性同士のコミュニケーションにおけるグルーミングのなさと、質問の形式の狭さがつながってくる。
話の流れ
- 0:12髭を伸ばしてみる1週間剃らなかったら生え揃った。「こういうバージョンも持っとこうかな」。
- 3:00男磨き番組へのタイアップDos Monosに依頼が来た。ジョージという人物のネットミーム的な面白がられ方と、参加者のマジな気持ちのバランスがどう転ぶのか。
- 6:20見ているだけの俺は何なんだ半分バカにしながら見ていても、めちゃくちゃやっている人を見ると「見ているだけの俺は何なんだ」という気持ちに必ずなる。有害な男性らしさですね、で終わりにできない。
- 8:20Paul Thomas Anderson『ブギーナイツ』『マグノリア』から『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以降まで、芸術家でありながらそういうものをずっと描いている。芸術をやっていれば無縁でいられるわけではない。
- 13:00逆張り性と熱狂の悪魔合体逆張り的な感性でやりながら、同時に人が本当にぶち上がる。松本人志が「逆に」を流行らせながら自分がマッチョになっていったこと。そのバランスを設定し直すのがアーティストの問題。
- 15:00どちらかのポジションを取らされる現実では「リベラルとかどうでもいいから男磨きしよう」か「それは時代遅れだから批判していこう」のどちらかになってしまう。芸術は立場をはぐらかしながら少しずつ問題ににじり寄れる。
- 18:00言論人に音楽をやらせたい菊地成孔と大谷能生の本で一番盛り上がっているパート。東浩紀は腹式呼吸だから絶対いい声が出る。ラップとDJは簡単すぎるので、楽器の演奏や歌をやらせたい。
- 20:40何してるの、が言えない標準語のタメ口で疑問文を言うのに勇気がいる。「何してんの」がねっとりして聞こえる。否定疑問文(〜じゃない?)にしないと言えない感じがずっとある。
- 26:00エセ関西弁でカバーする「なんでや」「どうしたんや」。ネットでも現実でも、その気恥ずかしさをエセ関西弁で覆っている。
- 27:40グルーミングのなさグルーミングはもともと毛づくろいの意味で、男性同士のコミュニケーションにはそれが少ない。中年男性が昼に友達とお茶できない問題とつながっている。
- 29:00モラルの問題にされるのが嫌思い当たる節があるからこそ、それを道徳的な問題として言われるのが嫌な感じがする。本来はもっとニュートラルな個性や傾向の話のはず。
- 31:56本音を言ったことになるための手続きフーコーのパレーシア論は、何を言えば本音になるかではなく、それぞれの社会で本音とされるまでにどんな手続きがあるかを見る。内容より形式のほうが面白い。
- 32:58昼の喫茶店か、夜の居酒屋か以前なら夜に酔っ払って居酒屋でくだを巻くのが本音だった。それが昼にお茶をしながら喋るほうへ変わってきている。なぜこう変わるのか。
- 39:12躁でも鬱でもなく平熱どちらかの立場に立たざるを得ないことにみんな辟易しているから、そっけなくいようという態度が支持される。ソブリエテはそっけなさともシラフとも訳せる。
- 40:34アルコールの時代からカフェインの時代へアルコールで打ち解けていたのが、カフェインで打ち解けるようになった。厳密にカフェインの話ではないが、視察的ではある。
- 43:16ハゲ散らかした、という言葉について荘子itが東浩紀の髪について使った言葉を、福尾が休憩中に指摘した。ポジティブな意図でも外見いじりはよくない。男子校的コミュニケーションゆえの感覚の歪み。
- 45:18プラクティカルに直すことと、燃やし尽くすこと実践的に直したほうがベターだという話はいくらでもしたほうがいい。それと同時に、その背後にあるコミュニケーションのあり方を全て燃やし尽くすのもいかがなものか。
- 51:12非対称性の保存現に存在する暴力を、芸術はそのまま反復するのではない別の形で保存する。非対称性があったということを何らかの形で残す、その実験の形が芸術ではないか。
- 51:47反実現としての芸術ドゥルーズは芸術をパントマイムになぞらえる。壁がないのに壁があるように見せるのは、出来事を実現しているのではなく反実現している。
この回で出てきた言葉
- 逆張り性と熱狂の悪魔合体逆張り的でアイロニカルな感性でやりながら、同時にそれで人が本当にぶち上がってしまう。
- グルーミングのなさグルーミングは今でこそセクハラ・パワハラの温床である「飼いならし」のイメージが 一般化しているが、もともとは毛づくろいの意味で、大事なものとして使われていた。
- 芸術は立場をはぐらかしながらにじり寄れる現実では「リベラルとかどうでもいいから男磨きしよう」か 「そういうのは全部時代遅れだから批判していこう」のどちらかのポジションを 取らされてしまう。
- 躁でも鬱でもなく平熱「人の欲望に手を突っ込むな」という福尾の言葉がツイートとして伸びたことについて、 荘子itは「対立せずにこの微妙な塩梅で考えよう、ということを言っているんだと思う」 と読む。
- 男子校的コミュニケーションの感覚の歪み荘子itが東浩紀の髪について「ハゲ散らかした」と言ったことを、 福尾が休憩中に「言葉としてそういう表現をするのはいかがなものか」と指摘し、 荘子itが放送に戻ってから訂正する場面。
- 反実現Gilles Deleuze は芸術をパントマイムになぞらえて語る。
- 非対称性の保存現に存在する暴力を、芸術はある意味で別の形に保存する。
- 標準語のタメ口で疑問文が言えない福尾が前々からずっと気になっていること。
- Paul Thomas Anderson『ブギーナイツ』の取り柄のない青年がポルノスターになる話、『マグノリア』の 自己啓発セミナー的な男、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の資本主義の権化になる男。
- 本音を言ったことになるための手続き「そういう形式にしまわないと本音を言ったことにならない」ことの強引さのほうが 気になる、と福尾は言う。
- Michel Foucault晩年のパレーシア(parrhesia=真理を語ること)論が参照される。
- 見ているだけの俺は何なんだ男磨き番組を「怪獣を見るような気分」で半分バカにしながら見ていても、 めちゃくちゃやっている人を見ると必ず「見ているだけの俺は何なんだ」という気持ちになる。
この回からの引用
標準語・東京弁のタメ口の疑問文って、否定疑問文にしないと言えない感じがあって、なんか喉に引っかかる感じがずっとあるっていうか。
それぞれの社会の中で本音とされるまでにいろんな手続きがありますよねみたいな、内容より形式見た方が面白いですよねっていうのが、めっちゃざっくり言うとフーコーのパレーシア論だったと思うんだけど。
どっちかの立場に立たざるを得ないっていうのに、みんなマジで辟易してるから。躁でも鬱でもなくそっけなく、みたいなことをすごくいいと思ってるっていうムードもあるんだな。
アルコールの時代からカフェインの時代じゃないけどさ。みんなどっちかっていうと、アルコールで打ち解けてたのが、カフェインで打ち解けるというか。
そういう男子校的なコミュニケーションゆえの、そういうのがあまりにも日常茶飯すぎて許されるという感覚の歪みによって、そういうことを言ってしまって申し訳ない、謹んで訂正させていただきます。
その非対称性があったっていうことは、何らかの形で保存できるっていうか、それの実験の形が芸術のあり方なのかなって感じがするんだよね。
→ 非対称性の保存
壁があるっていう出来事を実現してるんじゃなくて、反実現してるんだっていう、実現に反することをやってるんだっていう風にドゥルーズは言うんだよね。
→ 反実現